マミーのクレイジーな話,  子育て

9.11 アメリカ同時多発テロ当日

(写真: ウォールストリート。テロ10周年の2011年撮影 / ブログ: 2018年9月旧ウェブサイトに掲載したものです。)

皆さまも、今日はあちらこちらで 9.11 、2001年ニューヨークで起きた事件の追憶を耳に、目に、されたことと思います。私もあの朝は、ニューヨークで仕事をしていました。

被害を受けた多くの方に申し訳なく思うも、幸い無傷で過ごすことができたニューヨーカーも沢山います。でも、身体的被害者でないニューヨーカーのストーリーは、アメリカでは語られる事が殆どありません。

やはり、命があるだけでありがたい、との思いが私にもあり、わざわざ被害者面して話すことでもないかなと、長い間思ってきました。しかし今朝、ボーイズがラジオのニュースで 9.11 追憶の話を耳にすると、マミーはどうだったの?と。そこで17年前の記憶をたどって、私が事件の前後をどう過ごしていたかを書いてみることにしました。


​ニューヨーク5thアベニュー(5番街)

ミッドタウンの中心ロックフェラーセンターには、冬場スケートリンクになる広場を囲うように、3つのメインビルがあります。私が働いていたインテリア建築デザインオフィスは、そのうちの一つの向かって左のビルに、5フロアーを構えていました。5番街が、ダウンタウンへ真っすぐ南へ伸びるのを、見渡すことができる18階に、私の席はありました。

景気が上向きだったニューヨーク。​丁度、クライスラービルに2フロアーを契約したという、イケイケのIT企業オフィスのリードデザイナーを任せてもらった時期であり、がむしゃらに建築デザイン国家試験の勉強をしていた時期でもあったような気がします。様々な緊張と感情が混ざったあの席と、その窓からの景色は、私にとって言葉で表しきれない特別なものでした。

2001年9月11日火曜日は、綺麗な青空の広がる、とてもお天気の良い朝でした。

​オフィスは8時半開始。この日は随分早めに出勤し、朝9時のメッセンジャーに渡さなければならない、家具予算のパッケージを準備していました。オフィス家具は、一部品の間違いで億単位の金額が飛ぶため、かなり集中していたのですが、出来上がった頃には、何だかちょっと、普段よりまわりの雑音が気になり始めました。が、それでも無視して、送り先のアドレスを封筒に貼っていた時でした。

おじさん建築家がポータブルラジオを手に、興奮気味に歩き回って大声を出し始めました。「事故だー」 とか 「火事だー」 とか、「次はロックフェラーだー」 とか叫んでいました。このオフィスは、ロックフェラー以外に、ウォールストリートにもオフィスを構えていました。ウォールストリートオフィスと、朝の電話会議をしようとしたところで、向こうが大騒ぎだと。

私は自然と窓に目を向け、5番街のずっとずっと先を見つめてみました。煙が立っているのが見えます。最初の衝突が8時45分頃、9時のメッセンジャーに間に合う間に合わないどころじゃなくなりました。

9時少し前のその時間には、既にもう、「テロだろう」 という見解がラジオで出回り、次のターゲットは 「ロックフェラーかもしれない!」という噂が広まりました。私達は大急ぎで階段から避難、とにかくロックフェラーからなるべく離れるように歩き始めました。でも外は、何が起きたか分からずに、地下鉄に乗るべきか乗らないべきか迷っている人々が、ウロウロしていました。2001年ですから、まだスマホもありません。

ウォールストリートオフィスのお陰で、いち早く情報を得たため、どうするべきかは、すぐに判断がつきました。私はミッドタウンに住んでいたので、普段から徒歩通勤。夏はフリップフロップ(ビーチサンダル)で歩き、オフィスで履き替えるヒールを、バックに入れておくのが習慣でした。この日は、書類の準備が終わってから、ヒールに履き替えようとしていたので、まだフリップフロップのまま。直ぐに避難することができました。

フリップフロップが階段で役に立ったな、などと考えながら歩きました。遠く見える煙が、どんどん黒く高くなっていき、不思議な感覚に見舞われましたが、恐怖感はなく、無に近い感じ。何度も何度も、ロックフェラーセンターがテロに見舞われていないかを振り返りながら、いつも通りの道を、淡々と帰っていった記憶があります。

家に到着。停電はまだなく、エレベーターも使用できました。テレビをつけるとツインタワーが燃え上がっていて、それでもまだ恐怖感はなく、現実の物とは到底思えない映像を見るだけです。そしてはっと気が付き、この日は友達が日本からニューヨークに到着する日。電話やらネットやらで調べるも、はっきりとした状況がつかめず、こっちの方が恐怖でした。ニューヨーク到着予定の飛行機は、西海岸やらアラスカなど、多方面に緊急着陸しては移動して、時間稼ぎをしていたようです。勿論、ニューヨークへ到着することはありませんでした。

結局ロックフェラーセンターが被害にあうことはなく、私の日常は、そのまますぐに続きました。あれだけの規模のツインタワーです、一人一人に焦点をあてれば限りない数のストーリーが出てくる。仲良し建築家のお姉さんは、ツインタワーにあるオフィスで働いていて、真っ黒になって逃げだして来たと言っていました。

多々あるクライアントや取引先が被害に遭い、亡くなった方の名前も社内メールで知らされました。しかし会社としては、一日として悲しみを引きずらず、そして私のような一社員が、この先どうなるんだろう?なんて考える暇もないうちに、ぐんぐん先に進む経営陣の強さを、目のあたりにする事になりました。

崩壊によって消滅したプロジェクトは整理し、被害に遭い運営できない、同業社のプロジェクトを素早くゲット。あっという間にチーム編成され、社員も感情的にならず、黙々と数字を弾く姿は、強く冷淡でした。と、その時は思ったのです。

しかしそうであったからこそ、図太かったからこそ、ニューヨークは世界中の人々の憧れの場所であり続けているとも言えます。このように、直接被害にあわなかった多くのニューヨーカーは、感情的になる暇も与えられず、利益にならない仕事をこなすために、更に忙しい日々へ突進していきました。

どんなに皆が残業をこなし、ニューヨークを復活させようと、他社の尻拭いをしようとも、それでは収入源にならない。私の働いていた会社は、アメリカトップの大手だったため、ニューヨーク市からの期待も大きかったと思います。でも、寒い季節になるころには、経営は悪化、ニューヨーク経済も弱体し、大幅なリストラが始まりました。

ホリデーシーズンになると更に緊張が走り、毎週金曜日には、各スタジオから、二人ほどリストラを言い渡される状況になります。まさにロシアンルーレット。最初のうちさえ、リストラの形をとっていましたが、だんだんリストラ予備軍には、1~2週間前からプロジェクトの時間充てがなくなり、そのうちプロジェクト無所属にされて、飼い殺し状態です。

何故かというと、全てのプロジェクトは、30分ごとに仕事内容がマネージメントされていて、デザイナーは、参加しているプロジェクトの予算に合わせて、タイムシートを提出します。無所属になれば、0時間で提出することになり、お給料が振り込まれない。年棒契約はレートの基準であり、プロジェクトに貢献してこその収入。不況の時に限らず、普段からこの様なシステムなので、給料泥棒のような人材は存在しないし、皆こぞって、大きなプロジェクトに採用してもらえるよう、競争心丸出しです。

話は戻って、9/11 で時間充てがなくなったデザイナーは、ディレクターに、プロジェクトを与えて欲しいと伝えますが、無理だ、ときっぱり断られます。そうなるとリストラ確定なので、最後の有給を使い、自ら退社せざる得ない、デザイナーと建築家が沢山いました。

そして会社は、あの窓があった18階を手放す事になり、リストラを免れた私は他の階へ移り、緊張を押し殺したまま仕事を続けました。去る方も辛かったと思いますが、残されたデザイナー達の仕事量と、プレッシャーもひどいものでした。

その状況の中、私はニューヨーク社の名物女社長自らが率いる、スパルタプロジェクトへ引っ張り込まれる事態に。その時すでにおばあちゃまでしたが、物凄いパワーがあり、完璧以上の完璧主義者。ファッションにもルックスにもインパクトがあり、まさに映画の中のような方。アメリカの建築デザイン業界で知らない人はいません。

引っ張り込まれたはいいが、徹夜はあたりまえ。「ガールズパワーだ!」 などと言い、結成されたチームは全て女性。「男は根気がないユーズレス(使えない奴)!」 と、夜8時ごろサーっと帰ろうとする男性社員に、冗談交じりの暴言を吐いていました。帰るほうは、「ガールズ頼んだよー」 くらいのノリです。ニューヨークのデザイナーは、普段から言葉がキツめなので、真剣に受け止めて、差別だ、なんて騒ぐ人はいませんでしたね。

ひと段落したような日には、もう直帰以外考えられない程、疲れ切っている私達に向かって、「さあ、ワイン飲んでから帰りましょう!」 と混み混みのバーへ。さんざん喋って、パッとグラス2杯開けて、「あ!飛行機に送れちゃう!」 と、夜中にビジネストリップの移動をするような、キレキレのおばあちゃまでした。もう今は引退されていますが、この会社は、あの社長が率いていた頃が、一番面白かったのではないかなぁと、思う次第です。

9.11 直後の冬、私はこのように過ごしていました。身体的な被害による痛みも、個人的な悲しみもない、ただニューヨークのために、ただ前だけを向いて、昼夜仕事に明け暮れた記憶だけが、蘇ってきます。ニューヨークから逃げ出さずに、復興を見届けた事だけが、心の中の小さな誇りです。